リトル・ザキヤマ

個展のタイトル、決まりました。


この1週間毎日考えてメモして、何となく
「これだな」と思える言葉が出てきていた。
ここは粘るしかないなと思い、昨夜は
写真をベッドに並べてそれを眺めながら
2時まで考えたのだ。
やっといくつか「これだ」と思うタイトル
が出てきたので安心して寝た。


で、今朝7時に起きて、写真を並べて、
昨日考えたタイトルを見て思った。
「全部違うな」


どのタイトルも何か違う。
1週間毎日同じ事を繰り返してきたけど、
やはりそうだった。
「作家さん(僕ですね)はそう言うけど、
写真さんは1mmもそんな事言ってない
ですよ」と。なので全てボツにした。


けれど「また考えるか」とはならなかった。
ずっとメモの端っこに残していたタイトルが
あって、「やはりこれだな」と思ったので
ある。ありがちな、当たり前の言葉。
でもそれしかないなと思った。


写真展のタイトルって難しい。
押し出し過ぎるとイメージを固定して
観る人達のイメージを限定してしまうし、
引き過ぎると「お前、何がしたいんだ?」
となる。音楽でも文学でもそうだけど、
写真はその「引き方」がとても難しい。


あとは言葉そのものとの闘いがある。
タイトルを考えている時、僕の中には
リトル・ザキヤマさんがいる。
僕が「今度の展示、タイトルは○○に
しよう」と思うと、そのLZさんが
必ずこう言うのだ。
「○○、からの〜?」


まあそうだろうけど、その言い方で
本当にいいの?もっと良い言葉、
より的確な言葉はありませんか?
これがすごくキツい。
「からの〜?」に答えるために考え、
答えが出ないので本を読み音楽を聴き、
ちょこちょこメモして寝て、翌朝全てを
ボツにする事になる。


こういう写真だ、これが見たかった、
こんな事を考えていた、こんな状況だった、
をとりあえず言葉にしてはみるけど、
「からの〜」を考えると全てが陳腐に
見えてくる。今回はそれが特に大きかった。


普段の生活が大きいな、と思った。
日頃から色んなものを見聞きして、
自分の写真について考えて、それを言語化
する、というのを繰り返し実践する事が
大きいんだな、と改めて思った。
まだまだですわ。


とりあえずここからは写真そのものと
だけ、向き合う事になる。
時間はそんなに無い。仕事も家も色々
あって、さらに削られている。


でもまあ、楽しんでやります。
プリントしたりセレクトしたりしながら
LZさんと語り合うのだ。
「からの〜?」
「これはどうかな?このやり方もあるね。
 でも絶対これだわ!どうだ!」


楽しい時間が始まった。