下手の考え今日もまた

一昨日の地震、大きかったですね。
そして長かった。ニュースやら友達の
話を聞く限り、僕のいる岩手内陸部
よりも沿岸や関東、原発の近くに
住んでいる方々の方が遥かに大変だと
思います。まだ余震がありそうなので、
お互い気をつけましょうね。嫌だけど。


話変わって先週の事。教授が中年男性を
一人連れてやって来た。
「4月から来られる方です。ツルタさん
の後輩ですね」
いま僕の所にはもう一人研究員がいるが、
彼は去年の卒業生で、就職先が決まる
までの期間限定研究員であった。
こないだ就職が決まったので、代わりの
人が入ったという訳だ。


僕より5つ上だというその方には面識が
あった。少し前に見学に来ていたので。
僕と違って長年しっかり化学の仕事を
して来られたんだろうな、と思った。
先輩どころかこっちが教えてもらう事に
なりそうだ。
それにしても。俺、来年度もここで
働けるんですよね?


去年は年明けに「来年も働けますか?」
みたいな問い合わせがあって、2月末に
「決まりました」という連絡があった。
そういう段取りがあったので「これは
油断できないな。当然働けるとは思う
なよ」と気を引き締めた記憶がある。
それが今年は全く無かった上に、突然
新しい人が見学に来たものだから、
「俺、切られるのかな?」と思ったのだ。


54歳だからそうそう仕事は無いし、
ローンがあるし。困ったなと。
切るなら切るで早く言ってくれないかな、
と考えていた(北国の冬はそういう
マイナス思考を深めるにはうってつけ
の環境である)。


でもまあ、大丈夫みたいだ。
あと1年は間違いなくここで働けそうだ。
早く言えっての。


今のプロジェクトはあと2年だから、
よっぽどの事が無い限り再来年の春までは
働けるんじゃないかと思うが、その先は
全く分からない。プロジェクト終了と
同時に教授が定年退官されるみたい
なので、後ろ盾が無くなるのだ。


その時点で僕は56歳になっているので、
そんな年寄りの研究者を続けて雇って
くれるとは到底思えないし、大学の中で
他の仕事があるとも考えられない。
先の事なんて分からないけど、そんなに
明るい未来ではないのは間違いない。


とは言え思い詰めてもしょうがない。
先が全く見えない時は、目の前にある
事をただただコツコツやるしかない。
それしかできないよなあ、と毎日
ぼんやり考えている。


という訳で。早く書きなさいよ報告書。
今年もその時期が来たのだ。いわゆる
卒論形式のやつ。去年もなかなか書け
なくて、追い詰められたやつ。
今年も、先週の後半から毎日机の上に
突っ伏している。書けない。


家で書く方がはかどったなあと思い、
先週の土日にパソコンを家に持って
帰ったが、結局1回も開かなかった。
そんで撮影に行ったけど、大して
撮れなかった。何やってんだか。
やる事終わらせてからやれっての。


今日もパソコンを持ち帰って来ました。
明日から3連休で雪なので、家に篭って
今度こそやります……って思ったけど
春の雪なのよね。なんか撮れっかもなー。

これでいいのだ

昨日は3月11日で、それに関わる文章を
書こうと思ったのだが、上手く書けな
かったのでやめた。
無理矢理まとめようとしていたので、
それは良くないなと思った。


で、Facebookに短い文章と2011年に
行った個展「Kamaishi」からの1枚を
載せた。まだ言葉に表す事ができない、
と書いたが正直それしか言えなかった。


その「Kamaishi」についてもここ数日
考える事があった。
自分にとっては非常に思い入れのある
展示で、いつか写真集にしたいと思って
いるが、こないだ改めて写真を見て
「本当にこれで良かったのかな」と
思ったのである。単なる自己満足じゃ
ないのかな、と。


きっかけはあちこちで行われている震災
前後の景色を撮った写真展で、こちらの
テレビでも時々報じている。
それを観て「自分が撮った写真に意味が
あるのかな」と考えてしまった。
撮影もプリントも、自己満足に過ぎない
のではないかな、と。


で、数日考えまして。いま年度末のまとめ
に入っているので実験もしてないから
仕事中も考えてたりして(こらこら)。
その結果「自己満足だよな。意味なんか
ねえよ」となったのである。
それがどうした。だから何だ、と思った。


元々は釜石をいかにカッコ良く撮るか、と
思いながら作っていたのである。
いつも「すごく惹かれるよなー」と思う町
だけどなかなか上手く撮れなくて、
どうやったらこの面白さを残せるかだけを
考えて、何度も何度も撮影していた。


2009年から2010年の撮影で、ようやく
一つできたかもな、と思いながらプリントを
進めている最中に震災が起きたのだ。
だからこの展示は「震災前の光景を残す」
とかじゃない。
「釜石って本当に面白い町なんだよ。
それを見てもらいたい」だった。


撮り方もプリントも、その過程で色々試した
結果出てきたものだ。自己満足かも
知れないが、「単なる」じゃない。
いかんいかん。当時もそう書いたのに、
時々忘れてしまう。


という訳で今日はここまで。
最近まとめ癖が付いているので、
ここでバツっと切ります。

夕顔瀬

以前、盛岡の夕顔瀬橋について「江戸時代の
処刑場だった」と書いた事がある。
橋の下が処刑場で、斬り落とした首に夕陽が
当たって夕顔瀬、だと。
大学の同級生から聞いた話の受け売りだが、
改めて調べるとそういう記録は無かった。
お詫びして訂正致します。


なぜそんな事を書いたかと言うと、今朝
大学に車で向かう途中で事故を起こしそうに
なったからである。路面が凍結していたので
慎重に運転していたのだが、ある交差点で
停止しようとして突然滑り、前の車に追突
しそうになったのだ。


「いかんいかん」と隣の車線に逃げようと
したらそこにもバスが止まっていて
「あーあーあー」。
更にハンドルを切って道路から外れて
追突を免れたのだ。


「なんでまた突然」と思ったら目の前が
夕顔瀬橋だった。「怖いなー」となり、
早速調べたのである。
何の関係もありませんでした。
単なる運転ミスです。


同級生を弁護すると、彼は非常に霊感が
強い人で、みんなでドライブしている時に
突然青い顔をして「なんだ、ここ…」とか
言い出す事があったのだ。それが決まって
何か起きた事のある場所だった。
その彼が「夕顔瀬橋の辺り、気味が悪い」
と常々言っていたので、そこから始まって
何か取り違えたのだろう。


調べてみるとこの辺は前九年の役で戦場
だったらしいし、「夕顔瀬」という地名も
そこに起因しているようだ。「顔に夕陽」
では無いけれど。どこか陰がある場所
だなあ、とは僕も思う。
あながち間違っている訳でも無いのだ。


ちなみに処刑場は小鷹橋という所にあった
そうで、僕が通っていた中学の近くだ。
そういや大きな石碑があったな。
近くに友達の家があって、彼は2代続けて
医者をやっている。なんか無理矢理色々
繋げたくなるけど、多分何の関係も
無いだろう。


デマばかり並べてしまいました。
悪気は無いけど、気を付けよう。
よく確認しないとな。
まともな情報が少なくなっているから。

J.J.Music

すみません。今日もギターの話です。


僕は結構な数、種類のギターを弾いて
きたと思う。腕は全く無いけど、音に
興味があったからだ。
ギターというのは機種によって音が
全く異なるし、同じ機種でも個体差が
かなりある。それが楽しくて休みの度に
楽器屋を回っては試し弾きをしていた。


僕が大好きだったのは吉祥寺にあった
「J.J.Music」という店だ。
オールド・ギターを中心に扱う店だったが
どのギターも綺麗で、きちんと調整されて
いた。そういう店、なかなか無いんですよ。
見た目が汚かったり、パーツがへたって
いるギターを「ヴィンテージ」と言って
売っている店の、いかに多い事か。
この店にはそんなギターは無かった。


マスターが一人でやっていたが、この人が
最高だった。自分の好みが明確にある
けれど確かな技術があって、売っている
ギターはどれも良い音だった。
「俺、このギター嫌いなんだけどさ」と
言いながら、しっかり仕上げてくるのだ。


時には「これ好きじゃないから」と言って
破格の値段で売る事もあった。
でもしっかり手入れしてあって、良い音
なのだ。そういう所が本当に好きだった。


多分リアルタイムで聴いていたであろう
60〜70年代のロックやブルーズが好きな
人で、随分教えてもらった。
「この曲さ、楽譜ではこう書いてるだろ?
でも多分こう押さえてるんだよ」
そう言って弾いてくれた。確かにそうだった。


そんな話をするのが楽しくて、店に行く度に
何時間も一緒に音楽を聴いては馬鹿話をした。
迷惑だったろうなあ。
滅多に買わないくせにいつも長居して。


その店でありとあらゆるギター、エレキも
アコギも弾かせてもらった。ベースも弾いたし
エフェクターもアンプもたくさん使わせて
もらった。
その音が僕の中にずっと残っている。
良い音、好きな音の基準を作ってくれた。


この店で初めて買ったギターが、ギブソン
J-50というアコギである。
68年製、僕と同い年だ。今でも弾いている。
買った時は確かもっと状態の良いJ-50が
店にあった筈だが、僕はこれを選んだ。
よく分かってなかった事もあるが、この音が
なんか好きだった。よく見たらジェイムス・
テイラーのJ-50と同じスペックだった。


弾いてみると、生音はそれほど大きくない。
でも、録音するととんでもなく良い音である。
後にもっと音が大きくて良い60年製のJ-45を
他の店で買ったのだが、そちらは手離して
しまった。後から非常に後悔した。
売るならJ-50だったかもな、思い入れが
強過ぎたなと。
でもJ.Jで過ごした楽しさが忘れられなかった
のである。


会社を辞めて写真をやるようになってから
J.J.からは足が遠のいてしまった。
その後店は閉めてしまったらしい。
風の噂だと、マスターは違う仕事に就いて、
一時体調を崩してしまったとか。
すごく繊細な人だったよな、と思った。
店に行った時、ひどく沈み込んでいた時も
あったからだ。
いま、どうしてるかな。元気でいて欲しいな。


この店を僕に教えてくれた友達は、いま
病と闘っている。二人でJ.J.に行った時は
本当に楽しかった。
彼も僕も、マスターさえも今はあの店から
遠く離れた場所に居る。
たかだか20数年前の出来事なのに。
時間って本当に容赦が無いんだな。

テレキャスター

毎日テレキャスターを弾いている。
フェンダー・ジャパン製の、4万円位で
買ったやつ。某楽器店が特別にオーダー
した71年モデルで、色はナチュラル、
ピックガードは白である。


94年に買ったので、28年弾いてる事に
なる。安いギターだけど大当たりだった。
買ってから数年は本当に毎日弾いていた。
弾き過ぎてフレットが擦り減ったので一度
交換し、電気系統もリペアした。


テレキャスターというギターについては
僕の世代だとブルース・スプリングスティーン
の印象が強い。「ボーン・イン・ザ・USA」
ですね。でも当時は嫌いだった。
ちゃんと歌詞を見ていなかったので、
ナショナリズムっぽい曲かと思っていたし、
それに影響された日本のミュージシャンが
とにかく嫌いだった。暑苦しくてダセえなと。


テレキャスターと言えばオフホワイト、
ブロンドという色に黒のピックガードという
カラーリングが有名だが、当時どいつも
こいつもそれを使っていたので、嫌いだった。
このカラー、いまだに抵抗感がある。
キース・リチャーズも使っているけれど。


その印象が変わったのはスティーヴ・
クロッパーだ。一見簡単なようでちょっと
弾けない、粋なギター。めちゃくちゃカッコ
いい。すごく好きだった。
クロッパーが弾いていたブロンドに白ピック
ガードのテレキャスターを見て、印象が
変わったのである。カッコいいな、
欲しいな、と。


あとはオリジナル・ラヴ田島貴男
当時「ドグラ・マグラ」というTV番組で
テレキャスター購入記念特集」をやって
いて、そこで71年モデルのテレキャスター
弾いていた。後に「風の歌を聴け」という
アルバムのジャケットで持っているギターだ。
ボディ色はナチュラルで白ピックガード、
ヘッドの文字はモダン・ロゴのやつ。
これがカッコ良かった!


あのアルバムが大好きで、同じギターが欲しい
なと思ったがオリジナルは高いし、現行品には
無いスペックだった。「いいなあ、欲しいなあ」
と思っていたらそれがジャパンから限定品で
出たので、すぐお茶の水に行って試奏した。
音もめちゃくちゃ好みだったので即決して、
以後愛用している。


その後色んなギターを手に入れては手離して
きたが、これだけはずっと手元に置いていた。
売っても大した金額にならない、というのも
あるが、一番思い入れがあるギターだったので
手離す気が無かった。フレット交換した時は、
田島貴男テレキャスと同じく、ギブソン
タイプの太いものに変えた(ミーハーだなー)。


このテレキャス、すごく手に馴染むギターで、
弾くのが本当に楽しい。去年弾いた時に
「さすがにヘタったかな」と思ったので
ケースに入れっぱなしにしていたのだが、
こないだ久しぶりに出して弾いてみたら
アンプを通さない生音がとても良かった。
ビックリする位良い音で、しかも弾き易い
ので、以来毎日弾いている。
手に入れた頃の感覚を思い出している。


とは言えヘタった所もある。電気系統がね。
ジャックとか交換しなきゃダメかも。
ネックも少し反ってきたかな?
お金に余裕ができたらメンテナンスに出そうと
思っている。結構かかるけれど、
かけがえのないギターだからなあ。


カメラもそうだが、僕が使う道具は
高価じゃない物の方が相性が良いのかも
知れない。高価じゃないけれど丁寧に
作られていて、かつ自分にとって相性の
良いもの。誰でもそうか。
とにかく、そういう物を大事にしていこう
と思うのである。


まあ、突然大金が手に入ったら、高いギターを
買いますけどね僕は。高いギターと大型カメラ
を買うぞ、きっと。すぐに手離すけど。

帳尻合わせ

久しぶりに書く。
何度か書いてみたんですけどね。
途中で「なんかイマイチだな」と思う
事が続いてて。1,000字くらい書いて
「やーめた」となるのだ。
大した事書いてる訳じゃないけど、
さて今日はどうなるか。


年度末という事で、そろそろ大学仕事の
まとめをやらなければならない。
去年は突然1年分の報告会をやることに
なり、何とかやり終えたら卒論レベルの
報告書を出しなさいと言われて非常に
焦った記憶がある。
今年は早めに取り組まないとな。


とは言えデータは無いのである。
去年の1.5倍実験したのだが、なかなか
成果に結び付かない。成果どころかその
手前の手前、基質の合成が難しくて、
1ヶ月かけて500mgしか作れなかったり
したからだ。


2月に入ってようやく、成果というか
結果が一つ出そうなのでそれを中心にして
色々水増し、もとい肉付けして行こうかな
と思っている。
去年もそんな感じだったなあ。
2月に入ってようやく一つラインが見えて
きたので、それを必死にまとめたっけ。


一昔前のベテラン野球選手みたいだ。
シーズンの勝敗が決まった途端にヒットを
打ち出して帳尻を合わせるのだ。
クビにならないように。
でも今は通じないかもなー。
仕事、残れるかしら?


今日も朝から休出してきた。
昨日、何度もやってきた実験で突然また
訳の分からない結果が出たのでやり直して
きた。結果は明日分かるけど、どうなるやら。


こないだ今年度の報告資料を見直していて
ある事に気付いた。途中、完全に気が抜けて
いる期間があったのだ。8月のお盆過ぎから
10月まで、適当に流していた。
惰性で実験して惰性でまとめてた。
個展の制作期間である。


この時期、確かに報告会が多かったし、
しかも毎回日程が二転三転するので実験する
時間もまとめる時間も無かった。
でもそういう事では無い。
完全に個展の方に気を取られている。
自分ではそんなつもりは全く無かったが、
今見ると如実に現れていた。


赤バイク時代はその日任された仕事量を
ミスせずにこなせば良かったので
それほど目立たなかったが、今の仕事だと
露骨に出てくるようだ。怖いわあ。
「個展の事を考えてた」なんて書くと
偉そうだが、実際は「どうすんベー」と
ぼんやりしてただけだし。


とりあえず、明日も帳尻合わせに行って
きます。

土曜日雑感

土曜日だが朝から大学へ。


車に乗ろうとしたら雪が降ってきた。
大した量ではなかったが、「これは
積もるな」と思った。
空の色とその時の気温で何となく分かる
のだ。
案の定、車を走らせてすぐに雪の勢いが
強くなった。国道の温度計は−8℃。
あっという間に道路が白くなる。


すぐに積もる訳ではないが、とりあえず
スピードを落とす。父の教えだ。
「雪が積もった時は、50km/hr以上
出さない方がいいぞ」
バスの整備士であり、僕より遥かに運転が
上手かった父の教えなので絶対だ。


岩手の人達はさすがに分かっていて、
みんなスピードを落として走っている。
煽ってくるのは大概、雪を知らない所から
来た連中だ。そういう車が来たらすぐ道を
譲る。どうぞお先に。どうか遠くに。


大学に着いた頃には吹雪だった。
とりあえず必要な作業を終わらせる。
真空ポンプを止めて乾燥機を常圧に戻して、
サンプルを取り出して計量してサンプル瓶
に詰めるだけの簡単なお仕事。
あっという間に終わったが雪の勢いが
収まらないので、もう1つ別の作業をやる。
やっているうちに雪が止んで太陽が顔を
出した。さ、帰ろう。


蔦屋書店に寄る。家にまだ読み終えてない
本があるのにまた買う。いいのよ。
本は腐らないから。
車に乗り込んだらまた雪が強烈に降り出し
たので、慎重に運転する。
なんだろねえ。俺が車に乗ると降るよねえ。


家に着いて雪掻きをしようとしたら、
盛大に転んでしまった。パウダースノーの
下が分厚い氷だった事を忘れていた。
今シーズン初転びである。今年は雪道の
歩き方がかなり上達してたんだけどねえ。
まだまだでした。


雪掻きの後は母を車に乗せて買い物に行く。
いつも思うけど、スーパーやらドラッグ
ストアが近所にたくさんあるなあ。
車さえあれば買い物には困らない。
日常生活を送る上では横浜より遥かに便利
かも知れない。


家に帰って、今日も楽器屋とカメラ屋のHP
を観る。あとはAmazonか。
暮らすだけなら岩手は便利だけど、僕が
欲しいと思うものはなかなか手に入らない。
ちょっと前までは面白い店がまだあったの
だが、このコロナ禍でさらに少なくなって
しまった。


楽器屋とかカメラ屋を廻る楽しみが無く
なったな、と思ったが廻ったとて買える訳
ではないのである。横浜に居た頃は今より
もっとお金が無かったし。
でも見てるだけでも楽しかったな。
どっちやねん。


何にも考えずに思いついた事をただ並べて
みました。ビールが無くなったので寝ます。