Notes of "Morioka Note" Part2

個展「Morioka Note」、終了しました。
観に来てくださった方々、僕がいない間に
メッセージを残してくださった方々、
本当にありがとうございました。


前回は「絞り込む」という話を書いた
のだが、今回の展示ではもう1つ大きな
課題があった。それは「私事から距離を
置く」という事だ。


ここ数年、僕の展示は私的な色合いが
強くなっていたように思う。
展示の度にこのブログでも客観性云々
と書いていたのだが、実際には主観的な、
個人的な状況に影響されている部分が
大きかった。
展示のタイトルからして、全てそうだ。


最初は「私的でもいいじゃないか」と
思っていた。まずは目に入った物を
撮って、選ぶ事が大事。結果、私的で
あったとしても良いではないか気に
するな、と。


そもそも僕の写真は、最初からそう
だったのかもしれない。その傾向が
年々強くなって来たとしても、それが
自然な事ならば良いではないか。
この1年半は本当に色々な事があったし、
どれもが経験したことの無い事ばかり
だった。その影響を排除するのは逆に
不自然だ。


今回はより私的な展示になるかもなと
思いながら撮影を続けて、iMac
フォルダに写真を日々ストックして
いった。フォルダにはいつも以上に
私的な仮タイトルを付けていたのだが、
次第に何かが違うなと感じるように
なったのである。


観た人が作品から個人的な匂いを
感じるのは構わないけれど、作り手が
匂いを振り撒いて、観る人に差し出す
のは違う。「お前のそんな話、他の人
が聞きたいと思うか?」と考えたのだ。


セレクトに入って写真を絞っていくに
つれて、違和感は大きくなった。
こりゃ違うわ。そんな大仰なものじゃ
ない。これを表現する言葉は何か
無いかなと考えていた時、ふと以前
友達から借りて読んだ立原道造
「盛岡ノート」が頭に浮かんだ。


これだ、と思った。本の内容も好き
だが、「盛岡ノート」という言葉の
響きが良い。日々ノートに書き込む
ように少しずつ撮影していたものを、
そのまままっすぐに出せれば良いな
と考えた。
そこでタイトルを拝借したのだが、
「盛岡ノート」の写真版を作る訳
では無いので、英語表記にして
個展のタイトルに決めた。


セレクト同様、プリントに関しても
思わせぶりなものにならないように
気を付けた。具体的には全ての写真
について、露出をいつもより上げた。
変に陰影を付け過ぎないようにした
のだが、それによって写っている一つ
一つの要素が、程よくしっかりと
確認できるようになった。


それでも個人的な思い込みはどこまでも
付きまとう。最後は搬入時に他の方々に
観てもらい、思い入れだけの写真を
カットした。これで完成である。


今までと少し違う展示になったし、
自分でも上手く行ったと思う。
この感覚を忘れずに次に進みたいとは
思うけれど、どうなるかねえ。
とりあえずこれからも盛岡で一人、
「上手く行かねえなあ」と呟きながら
撮影やらセレクトを続けるんだろうなと
思う。


……あら、たくさん書いてしもた。
長々と失礼しました。